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ものつくりの生活と仕事から。 大島寛太の日記パート2

製作中




銀木犀に納品する椅子の製作をつづけています。
ここのところはひたすら部材の鉋がけ。

大鉋も小鉋も豆鉋もみんな出番です。

ひと削り、ひと削りするうちにやがてぴかっと木肌が光ってくる。

まだもう少しこの仕事が続きます。


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  1. 2012/06/28(木) 23:44:00|
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身の回りのこと

 

多分5年前くらいに仕入れた杉材が残り少なくなってきて、お世話になっている製材所にお願いしていた新物が届きました。

4mで末口が48cmの丸太を半分に割ってから3寸で挽いています。丸太はこずえ側を末・すえ、根元側を元・もと、と呼びます。まだ水をたっぷりと含んだ状態。木口に割れ止めのボンドを塗って、こないだの日曜に屋外に積み直しました。1年くらいは屋外で良く風を通して乾かし、いつまでも外に置いておくとカビやらシミがつくので折を見て屋内に移動し、使える様になるのは3年後位からでしょうか。使うときは欲しい厚さや幅に挽き直してつかいます。

これだけ豊富にあるから軽く見られている杉だけど、希少材だとしたらさぞかしもてはやされるだろうと思います。軽く、真っ直ぐで、狂いにくく、赤身は耐久性に優れ、経年変化が美しい。世界的に見ても優秀な材、特に建築の柱材としては超一級だと思います。ただ、植え過ぎちゃったよね。過ぎたるは及ばざるが如し。






同じく先日の日曜は久しぶりに仕事を休んで草刈り。久しぶりで茂っていたのでほぼ1日かかってしまう。草を刈るとタケやんが積んだ石垣が見えてくる。近くの岩をダイナマイトで割ってから小割りにして積んだんやと、前に話してくれた。まったく、手つかずの山をこうして人が暮らすように変えてゆく努力の積み重ねというのはすさまじい。それがたった2世代前の話なのだ。

石垣をのぞくと、割るために開けたドリルの穴が残り、ひとつひとつの石が整合するように玄翁ではつった跡があり、総じて見るとそこには自然と人の拮抗した関係がある。僕はこの石垣を美しいと思う。







さて今朝は今年初めてのマダケを掘ってきた。孟宗竹より1ヶ月ほど遅い。自分の竹林なんてないので、近所の方の好意で採らせてもらっている、家から3分の谷の斜面。孟宗竹に比べてマダケは、アクが少ないけれど香りと旨味も少ない。と僕は思う。逆に言えば孟宗竹はアクがきっついけれど、上手にアクを抜くと至福の香りと旨味が楽しめる。ただ、アクを抜きすぎると結局同じで、味も香りも飛んでしまいます。
  1. 2012/06/12(火) 01:39:00|
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夏の雲

 

6月の雲。

なんとなく、白井晟一のデッサン“東北労働会館 透視図”の雲を思い出す。

『モクモクモク。俺は来たよ。』

さあ、もう逃げられない。

夏の到来をはっきりと告げる合図。

田辺は昨日、梅雨入りしたようです。







台東区の新築邸へ納める建具・調度類の制作が完了し、昨年に引き続いての銀木犀の椅子の製作を進めています。






部材ホゾの“男木(おぎ)”と呼ぶ差し込み側。






これはアームと後ろ足の接合部で、幅5mmの長穴4つに、ぴたりと合う男木ホゾを加工。仕口の呼び方としては2枚2段ホゾといいます。ホゾを分割するのは、接合精度を上げるためと接着面積を増やすためで、細くなるホゾの強度を保つため、ホゾは根元部分で繋がっています。ホゾを根元で一体化させる仕口を“元一(もといち)”と呼びますが、このホゾの場合は4枚のホゾが全て繋がっているのではなく、縦の2枚が繋がっているので、何て言えばいいんだろう。半モトイチくらい。

ホゾを分割するもうひとつの大きな理由は、木の乾燥による収縮でホゾが緩むのを防ぐため。4枚割りにしておくと、木が収縮した時に男木が女木(めき)を挟み込むイメージです。こうした作為が本当にこちらの思い描いた様に作用してくれるかは、年月を経てみなければわかりませんが、20年後にビクともしていない事を祈るためには、出来る事はしておかなければならない。
ここのホゾの精度は製作の山場のひとつで、“ピッタリ”になるまで機械を調整して工作します。







仮り組みで精度を確かめる。

仕口(ホゾ接合部)の加工が終わると、次は部材の成形です。

  1. 2012/06/10(日) 01:45:00|
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5月21日 07時28分


和歌山県田辺市長野から見えた金環日食はこんな感じでした。

いまは、なぜこういう現象が起こるのか分かって、何月何日の何時何分頃に、ということまで分かっているけれど、かつての日々、なぜこういう事が起こるのか分からないまま、ある日ある朝突然太陽が翳り出したとしたら、僕はこの現象をどう受け止めただろう。

計り知れない宇宙のひろがりのなか、僕が泣こうが喚こうが、懇願しようが無視しようが、まったく影響の及ばない秩序のことを、僕はかみさまと呼んでいます。

ところがその秩序をもたらしたものはなにかという問いに、僕は言葉を詰まらせてしまう。

わからないことはわからない。まったくわからない。
そしてそれで良い。と今は思う。

わからない、というか、計り知れないと言った方が正確かもしれない。
圧倒的に自分を超越したものや力に、人間語の名前や性格を持たせる必要はないと思うのです。ネイティヴ・アメリカンは、自分のいのちを含めた森羅万象に作用し、かつ成り立たせているもののことをgreat spirit と呼ぶ。僕はそれを“偉大な意思”というふうに解釈しています。彼らはその力をgreat spiritと呼び、畏怖し、共に生きるけれど、それ以上に敢えて姿かたちを与えたり、人格化したりはしない。

降り注ぐ光のあたたかさのなかに、風の息吹のなかに、水の冷たさの中に、あなたはいらっしゃる。あなたが誰なのか全く見当もつかないけれど、そもそも誰という問いが当てはまるとは思えないけれど、僕が言葉にせずに祈るとき、その意識の先は彼方に飛び去って帰ってくることがありません。







  1. 2012/06/10(日) 00:26:00|
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